コーネリアス, ジェームズ・ガン
一連のコーネリアスとオリンピックのドタバタをみて悲しい気持ちになった コーネリアスのこの問題は遥か昔(自分が認識した時点でも遥か昔だったが)から言われてたことで、正直今更?とおもってしまう
起用した側もそこは飲んでやってんだとおもったし、そこを守り切れなかったのは組織としてどうなの、とおもってしまったりもする
思い返してみれば、森喜朗も失言をトリガーに引きずり降ろされたが、その失言自体はまあちょっとうん、という気もしないでもないけど、引っ張り下ろすほどのことか?とおもわんでもなかった 森喜朗は嫌いだけど
過去の何某かが掘り起こされてきて問題になってクビになるパターンはジェームズ・ガンとディズニーの間でもあったことを思い出さずにはいられない ジェームズ・ガンの時は、特にガーディアンの面々をはじめとして(デイブほんとに好き)声を上げてくれたことは本当に嬉しかったし、災い転じて的な棚ぼたで突然スースカがすごい速いペースでリブート?されて嬉しかったりと、感情の揺れ動きがまあまああった 爆笑の太田さんが指摘しているように、そういうミソがひとつでもあれば1ストライクで終わるっていう社会にジリジリと向かっていて、ケツに火がついている感覚さえある 石を投げている連中は、これまでの人生で一点の曇りなく聖人君主のように生きてきたんだろうか?
自分は過去の行いで反省していることはたくさんあるし、俺のことを嫌っているであろう人のことは指折り数えられるくらいには思いつくし、そうしたことについて歳を重ねた今、後悔の念こそあれど、なんらかそれを形にしてこなかったわけだけど、それは指をさされて当然なんだろうか?
怒る人たちのこともわかる
俺自身、とある組織のとある人間に腸の煮えくり返るような差別を受けて、今でも根に持っている
だからといって、じゃあその人を出待ちして辻斬りをしたらこの社会は差別のない社会になるんだろうか?そんなことはないだろう
ここでコーネリアスを火あぶりにして清々した人たちは気持ちよく床についているのかもしれないが、この社会には厳然として今でもそうした問題は存在しているし、今そこにいる当事者について何かアクションをしているんですか?とおもってしまう
だから、当事者意識を持っていると、それは苛烈な怒りがこみあげてくることだろうことはわかる
だけど、当事者の当事者意識だけで事が進むなら、例えば交通事故の遺児たちは車という存在に大して少なからずマイナスの感情は持っているだろうし、ありとあらゆる車を爆破して、道も爆破したら問題は解決するんだろうか?そうではないだろうとおもう
車専用のレーンをもっと整備するとか、車のテクノロジーを進歩させることで事故を未然に防ぐということがたゆまぬ努力で進められているはずである
改めて檜の舞台に上がるということはこういうことなんだなとおもったし、少なからず国家が衰退している(よね?)今そうやって舞台に上がる人に石を投げ続けたら遠くないうちに文化は死んでいくだろう そもそもオリンピックについて、俺は一貫してこの20年くらい?嫌いでいたけど、自国で開催というだけでイヤだったのに、そっから最悪の形でグズグズになっていて心底呆れ果てた
バッハさんが槍玉に挙げられて、開催国をサベッジしにくる人喰い男爵みたい言われてるのに、言いえて妙感はあるけど、バッハさんが好き好んでそういうことやってるんなら腹も立とうものだけど、あんなデカい組織なわけだから、なんかしら担がれてあの椅子に座ってるんだろうし、彼が矢面に立ってる後ろで甘い汁を吸い続けてるヒルみたいな連中もいっぱいいるんだろう
そう見て取ると憐れなようにも感じる
ピエール瀧がパクられた時にも、電気の楽曲が一斉にネットから消滅したり、瀧の出演している作品が消滅したりと散々な目に遭った 本当かどうか知らないけど、この一報を受けてCD割りました(逆にCD持ってるのに知らないことある?)みたいな人とかいたけど、やっぱりそれは作品と作り手をあまりにも同一視しすぎだとおもう
おもうに、道徳とか倫理とか(法律まで含めるかは微妙なところだが)をどれだけ踏まえてフィクションに臨むか?という姿勢に違いがあるように感じる 海外でもキム・ギドクとか、ウディ・アレンとか、次々と血祭りにあげられているように見える(俺はどちらのこともそこまで知らないので、彼らに対してどうこうという気持ちはない) もしくは、70年代?80年代オーストラリア映画のイカれた撮影手法に対して(こういう事例は掃いて捨てるほどあるだろう、シャイニングとか)現代の倫理観でこれはクソだから見ないし公に上映しないべきだろう、と判断するのは危険だとおもう なおかつ、今回タチが悪いのが後年の倫理観やプロップスを持ってして過去を裁こうというところにあるとおもう
これについても触れると非常に面倒そうな気がするんだが、端的に言うと今の価値観から戦国時代の侍に自刃なんてバカバカしいっしょ、なんて説いても全く伝わらないだろうし、オスマン帝国時代のスルタンにハレムは女性の性的な搾取ではないんですか?と説いても伝わらないだろう
もっと短いスパンでも、三島由紀夫の生涯なぞに触れると社会の価値観がドラスティックに動く中で苦悩していたことがわかるし、後年になって三島の思想がどうこう説いてもどうしようもないだろう そもそも、近代オリンピックという存在自体が欺瞞でしかなくて我が国でこんなアホらしいことをやっていても、ミャンマーでは民兵と国軍がずっとドンパチしているし、アフガニスタンではタリバンと政府軍がドンパチしているし、香港では弾圧が続いているし、本来的な意味を逸しているのに「オリンピック」と冠し続けていることに心底腹が経つ
国毎に出場する意味もわからんし、例えばミャンマーの代表として出場する選手には同情をおぼえる
イチ個人からしてみれば、デカい大会に出たかっただけなんだろうし、その目標を果たそうとしたら国軍の肩を持つような出方をしやがって、と石を投げられるのは不憫
そういうことが起きるのも、国を背負って、みたいなクソみたいなナショナリズムが未だに跋扈しているからだろう
はっきり言って、俺は自国の選手が勝とうが負けようがどうとも思わない
それでも国威発揚の効果があると踏んでるんだから虚しい
最後に一言: 何がコロナに勝った証としてオリンピックやるだよ、オナニーに巻き込むんじゃねえよクソジジイども
親近感を感じた